<感想文>致知2023年6月号 特集 わが人生の詩を読んで

講師コラム

特集 わが人生の詩を読んで

(致知2023年6月号 p10~11)

私が、この文章を読んで感じた部分をお伝えする。
まずは、吉村さんの手紙。長崎での原爆被爆の有様をまざまざと描いている。最初は感覚的にすさまじいなあと感じたのだが、後に手紙の文面をしっかり見たときその理由がようやくわかる。

それは手紙の1文がものすごく長いこと。最初の「。」までの1文は、400字ぐらいあるだろうか。要所要所で「、」はあるのでしっかり読める。

これは、原爆を被ばくされ、日常とはかけ離れた色々な出来事が津波にように襲いその時の心境をそのまま表していたのだと思う。ずっと「。」まで、休めない。文体と、そして当時の吉村さんの心境も休める部分がなかったのだろう。3日3晩飲まず食わずでよく生きていた、九死に一生を得て、パニックの状態からやっと自分を取り戻せるまでの時間を一文で表現していると推察する。

そして、中盤部分。少女とのやり取り。お互いに本当に大変な中、「お互いに余力が全くない中でそれでも相手を気遣う、限界の中で人らしくありたいと思うさま」と「なぜ、この少女にこんなことを言わせてしまう状況なのか。」という無力感が相混じっているように感じた。

詩の後半、人がバタバタとなくなっていき、不安のどん底で助けられ、生き延びた吉村さん。その周りの人も、時間の中で皆逝ってしまったという。そんな中でも、致知という「人生の師、人生の教え、人生を共に語り合える仲間」で100歳になっても学び続ける姿は、最後まで人として歩んでいきたいという気持ちを、強く感じさせられる。

最後に、冒頭の新聞配達の少年の詩。私が感じたことは、視点の違い。1つめは「自分が何を成し遂げたか?」という視点。これは、一人称の自分だけの視点で、自分が主語である。2つ目は、「自分が何を届けたか?」という視点。これは2人称で他者からの視点が混じる。
自分が主語ではあるが、「相手」に何をという、思いやりや利他の心が入る。

この2つの対比は、私という主語を使っても、持つ視点によってなすべきことが変わっていくように思う。一人称で自分が世界から何を得たかではなく、2人称の世界に何を残せたかという視点は、とても世界が広く開かれていると感じた。このような広い視点を大切にしていきたい。

また、そのような視点や考えを信念として持つことができれば仏陀のいう「人生の師、人生の教え、人生を共に語り合える仲間」をよりよく、活かしていけるのではないかと思う。

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